毎年参加してきた写真教室のクラス展。今年は時間的にも金銭的にも余裕ゼロなので参加しない。いろいろあってクラスメイトの人たちとも距離置くことにしちゃったし。
でも、そしたら他のクラスの人から「今年は作品出さないの!?」ってメール来た。見れなくて残念って…私の作品楽しみにしてくれてる人もいたのかー。と、何だかびっくり。頑張りたい気もするけど、私のリソースには限りがあって、何もかもはできないの。今はマラソンに精一杯。そして写真の方はあんまり素質がなかったなあ、と。たまーにいい写真撮れるときもあるけど、偶然だった気がする。
1年目のルーマニアの写真は我ながら良かったと思うし、ガッコの先生にもベタ褒めしてもらえたって聞いたけど、2年目のカンボジアの写真はすげえ平凡でつまんなかった。3年目はかなり前から出展諦めてたから、何出そうっていうアイディアも沸いてこなかった。それに作品作ったり打ち合わせしたりする時間も、額装したり会場借りたりするお金も、何よりやる気が全然ないからマジで無理。
3月の卒業制作でカンボジアツーリングのフォトブック作ったので燃え尽きたなー。4月に桜撮ったのを最後に、もうずっと一眼レフまじめに構えてない。たまには気晴らしに写真を撮るためだけにどっか行ってみたいって思ったりもするけど。そんな大した写真撮れるわけじゃないしなー、とか。
あんまり難しく考えずに、ツーリング写真は続けようと思うけど。人に絶対「いいね」と言われるような「正しい作品」「誤りのない作品」を撮ろうとするから、写真がつまらなくなるんだと思う。自分が好きなものを構えずに緩ーく撮ってたときの方が、自分も楽しかったし、なんか良い写真だった気がする。
クラスの人と疎遠になったのも、みんなのことが嫌いになったとかじゃないんだけど、それほど親しくもない人と親しげに付き合っていくことに疲れちゃった。趣味が多いと付き合いが多くて、その全ての人と全力でお付き合いしてる余裕は、私にはなかったんだ…適度な距離感難しい。
頑張ってる趣味の人付き合いは楽で楽しい。頑張ってる限りは認めててくれるから。でも、そこで頑張れなくなったときにどうなるのかなあって不安はある。現に前の会社の人とはもうほとんどやり取りない。前の会社で一緒にマラソン頑張ってた人とは今も連絡取ってて、一緒にレース出たりするけど。
乗馬も通うのやめたら乗馬の人たちから「マラソン頑張って。ひとまずお元気で」とか言われて、なんかさよならって言われてる気がしてしょうがないんだ。でもまあそれで切れる付き合いならそれまでだったってことなんだろう。今はマラソンは全力投球だから、ラン仲間はわりとみんな相手してくれてるけど、競技やめたりタイム出せなくなったら離れてく人もいるかも。不安感ハンパねぇ。
そう考えてみると私、趣味の仲間はいても、友達って言える存在いないのねー。友達ってなんだろなー。年取るとますます定義が難しくなってくる気がする。
ティーティ=ウー
2015/06/2008:41 URL
スゴく共感できます。
自分も展覧会に出してる絵は修行レベルで苦しいときすらあります。
その反面、ただ気の向くままに旅をしてお気楽に描いている水彩スケッチは真底楽しくて、見てくださる方でも「油絵はスゴイんですけど、私は水彩が好き」とか普通にいわれます。
絵も写真も、「作品作り」には苦痛も伴いますよね、きっと。
ゆまさんの写真、絵描き目線でしかないんですが好きなんですけどね。絵はゼロから描き出していく難しさはあるんですが、その分、表現したいことを逃がすことはないんです。その反面写真は一瞬で対象を切り取ることができるけど、その場に出会う運や努力も必要だと思うんです。
ゆまさんの写真は充分に、他人が見てもそのひと時の、ゆまさんの感じられたトキメキのようなものが伝わるものになっていると思うんですが…。
写真をやる人って多いんですけど、正直、自己満足でなにも伝わらない人もたくさんみかけますし。それに加えて、おそらく写真教室のレベルって、芸術的にも求められるものが相当高いのでしょうね。
人間関係もいろいろですよね〜。
ただ、他人と「合わなくなる」っていうのは、実は相手側でなくて、その人たちとの共通言語に対する自分側のスタンスが変わって、合わせづらくなっている…というパターンが多いように感じます。
実は変わっているのは自分…というような。
そういう場合、ムリして合わせようとするとストレスになってしまうことあるかもしれませんね。
ただ、あえて人付き合いを求めずに自分自身がブレないで生きていると、自然とその時の自分の波長みたいなものに合った人も周りに集まってくるようにも感じます。
長々と失礼しました。